中学生のとき、おもむろに父親の書斎を漁って、「海辺のカフカ」を読んでみたことがある。
僕はその頃、他の友人と比較しても人並みかそれ以下の読書しかしたことがなく、ましてや小説なんて敷居が高いものと勝手に思っていた。
父親の書斎には昔から実にたくさんの本があったのだが、僕が「海辺のカフカ」を手にとったのは偶然ではなかった。
それは言わずと知れた村上春樹の代表作で、中学生の僕でも名前を聞いたことがあったらしく、さらに「15歳になった僕は二度と戻らない旅にでた」のようなキャッチフレーズになんだか惹かれ、手にとったのだった。
そして、わずか10ページで挫折した。
……
春樹の小説は文体が独特で、異端の部類に属するものだと思う。
中学生の僕は、その独特の文体に、拒否反応が出た。
「だいたい、『カラスと呼ばれる少年』なんて、大人の娯楽である小説の登場人物として適切なのか…?」
それはあるいは、小学校の教科書に載っていてもおかしくないような錯覚を覚えたのである。
そのあと、書斎にあった伊坂幸太郎のチルドレンを手に取り、彼の作品の虜になり、小説というものにどっぷりハマっていったのを覚えている。
そして、村上春樹からはしばらく距離を置くことになった。
……
その数年後、僕はおもしろい体験をする。
大学生になった僕は、久しぶりにもう一度、「海辺のカフカ」を手に取り、読んでみた。
どうせつまらないだろう、と思いながら。
映画化されて話題になったノルウェイの森を読んで、春樹のほかの作品も読んでみたくなったからだ。
するとどうだろう。
面白くて、ページが止まらない。
みるみる物語に吸い込まれ、あっという間に読み終わった。
「これは日本の文学を代表する作品だ」
生意気ながら、僕は本当にそう思ったのである。
……
その変化の理由は、「正統派の経験」にあると思う。
中学生から大学生になるまでの何年もの間、伊坂幸太郎や石田衣良、重松清に恩田陸といった、いわゆる「正統派の小説」をたくさん読んだ(ここで僕が定義する正統、異端は説明をわかりやすくするためほ便宜的なものであって、文学的に必ずしもそうなわけではありません)。
正統派を経験することで、異端への免疫ができ、それが異端たる所以や、それならではの奥深さを理解できるようになる。
普通を経験しないと、特別の本当の良さなんてわからない。
そういう当然と言えば当然のことを、僕は身をもって実感した。
……
この法則が一番当てはまるもの。
それは、恋愛です。
「草食系男子」という単語が日常的に使われるようになって久しい。
僕の周りでも、異性と付き合っていない人は、男女別なく多い気がする。
その多くの理由は「理想的な異性がいない」というもので、彼らの中にはどうやら「私のことを絶対的に幸せにしてくれる誰かが、いつか目の前に現れる」と信じてやまない人がいる感じもする。
まずは、目の前の異性を見つめてみよう。
付き合わなくたっていいから、一回でもデートしたりお茶したりすれば、その子の服装、しゃべり方、どんな食べ物が好きか、どんな人生を送りたいのか、などの情報が得られる。
なにより、それらの発見はたいていの場合、楽しい。
いつかやってくる「理想の恋人」が目の前に現れたら。
その時は、それまでの普通のデートで培った経験を駆使して、なんとかモノにしようじゃないか。
最高のデザートを食べるために、まずは普通のアイスクリームを味見して、その日のためにじっと備えましょう。
最後に、尊敬する石田衣良さんの言葉をお借りして。
「恋のメガネは焦点を甘く」
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