2011年6月16日木曜日

昔のボーイフレンド

 武弘との一年半ぶりのセックスは、なんだかぎこちなかった。身体は記憶の中にあるとおりなのに、反応がどこかずれてしまっている。タイミングが微妙に狂っているし、それがお互いにわかっているから、その最中におかしな焦りが生まれてしまった。
 武弘は以前にも増してがんばってくれたが、結局はるかはその夜エクスタシーを迎えることはなかった。それでもはるかは十分満足だった。こうした行為は、繰り返していけば自然にただしい形やタイミングが見つかるものである。武弘との相性は六年の永い春のあいだに確認ずみだった。

 真夜中をすぎてぐったりと眠りこける武弘の横顔を、はるかは頬杖をついて見ていた。何度も頭に浮かぶのは、なぜこの人だったんだろうという疑問である。武弘は低いいびきをかき、うっすらと口を開いて眠っている。

 そのときはるかが考えたのは、世の中にいる無数の男たちのことだった。この人だってうちの会社の同僚のように、私以外の人にはずいぶんいいかげんなところがあるのかもしれない。でも、武弘はわたしにはいつだっていい人だった。わたしが最大限に困っているときには、なぜかいつもそばにいてくれた。きっとこの昔のボーイフレンドはそういうめぐりあわせの人なのだ。そう思うとなぜか涙がにじんできた。はるかは新しいベッドカバーの端に、そっと涙を吸わせた。

 人の気も知らずに、武弘のいびきがのんきに高くなった。はるかは手を伸ばして、芯の硬い男の鼻をつまんだ。息ができなくなったようで、しばらくもがいてから苦しげに武弘が目を覚ました。はるかの手を払いのけていう。
「なんだよ、殺す気か」
はるかは荒い息をする武弘の頬にキスをして、耳元でささやいた。
「だっていびきがうるさかったんだもん」
はるかはほかにももっと伝えたいことがたくさんあった気がしたが、そのまま抱きついているうちに言葉は涙になって流れてしまった。武弘は黙って抱きしめていてくれる。この人はそういうことが無理なくできる人なのだ。
 
 明日は一日なにをしよう。十八カ月ぶりにふたりですごす日曜日に、はるかの胸はときめいた。もうすぐ朝がくるだろう。

by 石田衣良 1ポンドの悲しみより

……

短編小説って、苦手な人が多いと思うのだけれど、僕はすきです。
むしろ長編小説よりもすきです。

あっさりしてて、シュワっとしてる。
読書というよりも、音楽を聴く感覚に近いかもしれない。

トリックを楽しむというより、読んでいる瞬間をたのしむもの。
それが短編小説。

今回は石田衣良さんの作品を引用させていただきました。
「ネタバレじゃないか!」
と言うひと、短編小説にネタバレはないのです(持論)。
この「1ポンドの悲しみ」という小説には
ほかにもたくさんの素敵な短編があるので、ぜひ読んでみてください◎

短編小説のすすめでしたー

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