- 言葉は魔法である
22歳になった、という実感は、唐突にやってきた。
……
僕がバイトをしているスターバックスでは、GABという素晴らしい制度がある。
GABとは簡単に言えばメッセージのことで、素敵な気遣いを仕事中に見せたパートナーに渡したり、
そうでなくても、単純にパートナーにメッセージを伝えたい時に書いて、手渡す。
これを貰うと、無条件に嬉しくなる。
「俊平くん、ポケットに入れておいたGAB見てくれた?」
僕がシフト後にバックルームでのんびりとしていたら、とあるパートナーAにそう言われた。
「うん?見てないよ。」
「うそ!私、ちょっと遅れちゃったけど、誕生日おめでとうってことで俊平くんにGAB書いたのに。
ポケットに入ってるから!」
そして僕は、自分のポケット(パートナーには一人ひとつの小物入れ用ポケットがある)に入っているGABを発見したのである。
これを読むと、やはり、無条件に嬉しくなってしまう。
「ホントだ。わざわざ、ありがとう。嬉しい。」
僕は、思わず本音が出た。
「いえいえ。私がありがとうって思って書いただけだから、気にしなくていいよ。」
いい人だなぁと思った。
『HAPPY BIRTHDAY!!』
短いメッセージは、だから、よく心に響く。
言葉は魔法なんだな、と思った。
- 大学の講義がつまらないのは当たり前である
今朝方、次のようなツイートを目にした。
「この先生、先生自身が書いてる教科書読んだほうが、先生の講義聴いてるより何倍もわかりやすい。」
どうして、こういうことになるのだろうか。
考えてみれば当たり前のことである。
言葉には、二種類ある。
すなわち、「書く言葉」と「話す言葉」である。
「書く言葉」とは、教科書や小説を書く際に使う言葉のことである。
主に、深く思想するときに使う。
「話す言葉」とは、プレゼンや営業の際に使う言葉のことである。
こちらは主に、伝えるときに使う。
このふたつの言葉は、ベン図的に言えば交わっているところも多少はあるが、実際はかなり違う。
大学の教授は、概ね、「書く言葉」の技術に長けている。
彼の辿ったキャリアを考えれば明らかだろう。
大学である程度「有名な」教授であれば、彼の書く技術はそれなりに高いと言える。
だから、そういった教授が書いた教科書は、わかりやすい。
しかしながら講義では、「話す言葉」を使わなくてはならない。
「書く言葉」の技術に長けている人が、「話す言葉」の技術も同様であるとは限らない。
むしろ大学教授の場合は、極端に下手なケースの方が多い。
教授の話を聴いていてさっぱりわからないのは、
彼が「書く言葉」でそのまま話をしてしまっているか、あるいは、
彼が「書く言葉」で書いた内容を「話す言葉」に上手く言語化できていないからである。
だから、大学の講義は、「つまらなく聴こえてしまう」ものが必然的に多くなる。
- 話が上手な教授の講義ほど、実は落とし穴がある
このように考えると、「聴いていて面白い講義」は、次の2つに分類できる。すなわち、
a, 教授が「書く言葉」と「話す言葉」の両技術を身につけており、かつ内容が興味深いケース
b, 教授が「話す言葉」だけに優れており、実際は実のない講義をしているケース
aは万々歳である。面白い上に、確かな教養が身につく。
注意したいのはbのケースである。
教授の話は立板に水で、次から次へと言葉が出てくる。
しかし、話が面白いが故に、内容の浅さに気がつけない。
内容は、新書の序章くらいのものであるのに、うまく誤魔化されている。
大学で学ぶ学問は、そんなに簡単ではない。
教授の言っていることがとても分かりやすいのだとすれば、bのケースも疑った方がいい。
高校とはまるっきり、内容が違うのだ。
- プレゼン偏重の危険性
現代は、あらゆる場面で、プレゼンが偏重されているように思う。
しかし、「プレゼンが上手い」というのは危うい技術である。
プレゼンは、前述の通り、「話す言葉」に特化した技術だからである。
弁論術の時代から、プレゼンの上手い人が常にリーダーとなってきた。
豊臣秀吉然り、ヒットラー然り…。
そして現在、オバマ大統領やジョブズ(どちらもアメリカなんだなあ)のおかげで、また、
プレゼンの重要性が巷を賑わすようになった。
日本で言えば、橋下徹さんなんかが上手いプレゼンの代表者だろう。
しかしながら、プレゼンは、「話す言葉」である。
「書く言葉」とは一線を画す。
彼らのような上手いプレゼンをする人間に対して、我々は、しっかりと判断をしないといけない。
「こいつの言ってることは胸に響くけど、本当に正しいのだろうか…?」とね。
もちろん、プレゼンの技術は必要ない、と言っている訳ではない。
言うまでもなく、大事だ。そして、大事になってくる。
だからこそ、である。
プレゼンの上手い人に対して、我々はクリティカルな視線を与え続けなくてはならない。
(余談ですが、ビジコンとかも、優勝するのは「話す言葉」がうまい人が多いですよね…)
- 手紙は「話す言葉」で書く
それでも、「話す言葉」はやはり大事な技術である。
今までの議論を振り返ると、例えば、手紙の特殊性に僕らは気づくだろう。
手紙は、「話す言葉」を使って書かれているのだ。
このような倒錯は、ほかにあまり例がない。
手紙が心に響くのは、書いた人間が、「話す言葉」で伝えようとしているからである。
自分の言葉が伝わらない、と感じるとき、あなたは「書く言葉」で話していないだろうか。
誰かに対して怒りの長文メールを送ったとき。
別れたいと切り出す恋人に、グチグチと文句を言うとき。
営業で、マニュアル通りにペラペラ喋っているとき。
「書く言葉」では伝わらないのだ。
ちゃんと伝えたいときこそ、一旦思考をリフレッシュして、「話す言葉」で整理してみるのだ。
それこそ、大好きな人に手紙を書くように。
……
僕は、圧倒的に、「書く言葉」の方が得意な人間だ。
22歳になって、そして、「話す言葉」もしっかりと身につけたいな、と思ったのだった。