どうやら僕は、一ヶ月以上ブログを更新していなかったらしい。
「らしい」と書いているが、確信犯である。
「書こうかな」と思うことも多々あったが、書かずにいた。
書かなかった、そのことに明確な理由はない。
嘘である。
理由がある。
けど、その理由は書かない。
シット。
非常にバカバカしい理由だからだ。
……
メモ帳を読み返す。
そこには、ブログに書こうと思っていたことが、断片的に綴られている。
思考の欠片である。
「量より質だと思いながら、質より量を重視する」
「周辺視野で君を見る」
「今にして思えば先輩として能う限りの特権を濫用し、それこそ万策を尽くして彼女を籠絡したのであった(太陽の塔より引用)」
「偽善事業 やらないよりは 善だよね」
「友達の友達と、友達になろうと思わなくなった」
なんなのだこれは、と思う。
なぜ、俳句が書いてあるのか、自分でもわからない。
とはいえ、僕はまたこうして筆を取っている。
パソコンをカタカタ打っているだけなのに「筆を取る」というのも妙な言い方である。
インソムニア。
丑三つ時に、回らないアタマで、書く。
支離滅裂にならない程度で、とりとめのないことを書くつもりである。
……
芸術に、救われることがある。
例えば、一枚の絵画に。ひとつの音楽に。
救われた経験というのは、彼にとって様々な意味を持つ。
エバーラスティング。
続いていく。
その音楽に救われたという経験、記憶は、後まで続いていく。
僕にとって、ある小説がそうだった。
浪人、いや、仮面浪人していた頃に出会った小説に救われたのである。
……
「太陽の塔」という小説だった。
作家は森見登美彦。彼のデビュー作である。
京都に通う大学生の、他愛もない記録が、もう少し正確に言うと、一人の女性にフラれながらも彼女の研究を続けながら思い悩む記録が、ただただ詳細に綴ってある小説である。
なぜその小説だったのかはわからない。
ただ、僕はその小説を手にとった。
浪人期の、最も辛い時期だった。
コインシデンス。
偶然の一致、だと思う。
なぜその小説に惹かれたのかはわからない。
ただ、僕はその最後の十数ページが好きだった。
何回も読み直した。
エバーラスティング。
勉強が辛くなったら、手を伸ばしていた。
……
その小説に、こんな一節があった。
今にして思えば先輩として能う限りの特権を濫用し、それこそ万策を尽くして彼女を籠絡したのであった
僕は、なぜかこの一節が好きだった。
彼は、森見登美彦は、尋常ならざる語彙の持ち主だった。
そして、僕はこの小説で「籠絡」という言葉を覚えた。
籠絡:巧みに手なずけて、自分の思いどおりに操ること。
そうなのだ。
籠絡という響きに惹かれたのだと思う。
僕は、この小説を、受験期に10回は読んだ。
読むたびに元気が出て、なぜか知らないけど、何回読んでも涙が出た。
インソムニア。
不眠症が襲いかかるような時。
そんな時に、やはり、僕は救われたのだ。
……
僕は今、国際学生シンポジウムというディスカッション団体で活動している。
この団体が好きな理由は、まあいくつもあるんだけど、決定的なものがある。
僕は、自分に合った団体を探していた。
夏だった。
それまで所属していた団体が、なんとなく馬に合わない感じがして、フラフラしていた。
そんな夏だった。
「だったら、お前が籠絡しちゃえばいいじゃんか」
とあるメンバーの発言だった。
初めて参加したミーティング後の、飲み会の席だったと思う。
僕は、生まれて初めて「籠絡」という言葉を口にする人を見た。
その言葉が、僕にとって特別な意味を持っていたことは、言うまでもないと思う。
僕は、そして、この団体に入る決意を固めた。
……
エバーラスティング。
優れた芸術との出会いは、その後もずっと続いていくものだ。
絵とか音楽とか小説とか映画とか。
そういうものって、大事だ。
実学的じゃないことの方が、人生の方向を、明確に定めてくれることもあるのだから。
芸術を、馬鹿にしたくないと、僕は思う。