2012年8月11日土曜日

日本の美しいナショナリズムの起源はどこにあるのか

U23、サッカー日本代表の奮闘が終わった。
オリンピックだ。
昨晩、3位決定戦が終わった。
僕の家にはテレビがないので、近所のスペイン料理屋で、手に汗を握りながら見ていた。
日本は宿敵韓国に0-2で完敗し、メダルを手にすることはできず、4位と涙を呑む結果となった。

僕は10年間以上やっていたこともあってサッカーが大好きなのだけど、
ここで詳しい解説を述べるつもりは毛頭ない。
しかしながら僕は、渋谷で観戦した準決勝を思い出さずにはいられないのだ。

……

どうしても「渋谷」でサッカー観戦をしてみたかった。
日本国民がひとつになるような決戦を。
前回のワールドカップではその機会がなかったから、今回のオリンピックはぜひ渋谷で見たい!という思いがあった。

その願いは、準決勝のメキシコ戦でついに叶うことになる。

……

僕は、友人を誘って二人で渋谷のHUBに行った。
エントランス2000円で4ドリンクがつくという。
なかなかお手頃な値段だ。

地下1階の室内は狭い。
2つのブロックに分かれていて、事前予約した人は座ってゆったりと観戦し、それ以外の人は全員立ち見ゾーンに詰め込まれた。
(個人的には、立ち見ゾーンの方が楽しい気がする。)

立ち見ゾーンは本当にすし詰め状態で、試合開始前から熱気がやばかった。
そこには日本人以外の人もいた。
例えば、僕の隣にはたいそう太ったイギリス人がいて、彼もみんなと一緒になって「Nippon!!Nippon!!」と声援を送っているのだ。

HUBでのメキシコ戦の盛り上がりは、半端ではなかった。
特に大津が先制ゴールを決めたシーン。
地下1階が地鳴りのような叫びにつつまれ、誰が持っているのか不明なホイッスルやらブブゼラが鳴り響いた。
みんな、知らない人とハイタッチしていた。
僕も気分がよくなり、もうなんだかそこらじゅうの人とハイタッチをした。
それからもみんなでひとつになって応援した。
「にっぽん!!にっぽん!!」

とにかく店内は暑くて、クーラーの威力も微々たるものであり、店員たちがメニューであおってくれて生まれた風も焼け石に水という感じであった。

ゲームは結局、後半にミスで失点をして勝ち越され、終了間際にはダメ押しの一点を食らった。
1-3で敗戦を喫した日本代表。
HUB内にはため息がもれた。
扇原をけなしている人がいた。
でも、「次は頑張ってなんとかメダルを!」という期待の声も多かった。
僕も、頑張ってほしいと思った。

……

試合が終わって、午前3時。
当然終電もなく、僕と友達はなんとなくスクランブル交差点に向かった。
負けたから、みんな沈んでるんだろうなあ。
そんなことを思いながら歩いていたが、僕らを待っていたのは異様な光景だった。

「にっぽん!!にっぽん!!」

スクランブル交差点は、HUB以上の熱気に包まれていた。
信号が赤の間は、交差点を挟んで両岸で代表の応援歌を歌っている。
そして青になった瞬間、みんな一斉に交差点へと奇声を発しながら駆け出し、なりふり構わずハイタッチをする。
後から、交差点に来た人たちも、「なんだなんだ!?」とみんなハイタッチに参加し始め、もう様相は混沌を極めていた。
中には黒人やら中東っぽい人たちもどさくさに紛れてはしゃいでいた。

「ナショナリズムだ。」

僕はそう思った。
これがナショナリズムだ、と。

いつもの僕なら、そんな馬鹿騒ぎしている光景を目にしたら嫌悪感しか抱かないのだけど、その日はなんか違った。
僕も、見てるだけで最高に気持ちよかった。
それは、セックスなどの性的快楽とも、小説や映画から得られる精神的快楽とも異なるものだった。
僕たちが、日本人であるという自覚。
そのナショナリズムが、たまらなく快感だったのだ。

……

日本人のナショナリズムは心地よい。
それは東日本大震災であらゆる人が実感したと思う。
我々はみな誇らしかったはずだ。
緊急時にも慌てない日本人の強さと、日本人の譲り与える姿勢を、世界中が称賛したことに。
それは今さら指摘するまでもない。

日本人であることが誇りである

このような思いを抱いている日本人は多い。
僕はそれを美しいと思う。
なぜ僕がそれを美しいと思うのか。

……

ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」で指摘したように、ナショナリズムは18世紀のフランス革命にその萌芽が見られる。

ナショナリズムとは「国民主義」などと訳されるが、その定義は曖昧だ。
主要な論者のひとりであるアーネスト・ゲルナーは「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」と定義している。
要するに、ナショナリズムとは、「国民が、国民であるという自覚」だ。

なぜそれがフランス革命で出現したのか、というのは相当長い議論になるのでかなり短く説明する。

市民革命を起こして新しい「フランス」を作ろうとすれば、周りの国家の国王は黙っちゃいない。
その市民革命が自国に波及して、王を倒そうとする運動が活発になるのが怖いからだ。
そこで、フランス革命をつぶそうと周りの国々はフランスに干渉する。
その干渉に打ち勝つために、「フランス国民であるという自覚」が求められたのだ。
(当時は国境とかも曖昧ですからね。誰がフランス人であるかも、それまでは曖昧だった。みんながフランス人という自覚を持つことは、とてつもなく大変なことだったんです。)

……

フランス革命以降、ナショナリズムは世界中各地で見られた。
むしろ18世紀以降の世界史は、「ナショナリズムの歴史」と言っても過言でない。

どの国家も、他民族と自民族の差別化をはかった。
世界はたいてい国境が曖昧で、民族も入り混じっているから、
国民が、国民であるという自覚
を植え付けるのはとてつもなく大変だった。

それは時には虐殺となり、戦争を引き起こし、たくさんの血が流れた…

……

ここで、話を戻す。
我々が「日本人であるという自覚」を持つとき、世界のナショナリズムとは少し異なることに気が付くだろう。
我々は、虐殺も戦争もなしに日本人であるという自覚」を手にすることができた。

島国」。
それが我々の強みだった。
国境がはっきりしていた。
我々は、他民族との差別化を、血を流さずに手にすることができたのだ。
もちろん、南京虐殺や、北海道と沖縄といった例外はあるけれど、世界では極めて稀な例であることには疑いの余地がない。

僕が美しいと思ったのはそこだったのだ。

日本人のナショナリズムには、他民族を蔑視するという概念がない。

……

サッカー韓国代表は、日本との銅メダル決定戦で勝利しメダルを確定した後、 "独島は私たちの地"と書いた紙を持ってセレモニーをしていたとして、話題になっている。
ほんとに言語道断。
スポーツに政治観、宗教観を持ち込んではいけない。

まあでも、韓国のナショナリズムは、世界の一般的なそれと同じなのだ。
他民族を蔑視するというのがその根底にある。

疲れたからもうここで終わります。
だけどやっぱり、こう思うよね。
日本人は素晴らしいって。

そして僕らは、これによって陥るナショナリズムのパラドックスに、まだ無自覚であったりもするんだ。




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