2011年6月27日月曜日

1と0.999…の間に存在する数字

さっそくみなさんに問題。

①0.999… =1
②0.999… ≠1

この2つの内で、正しいのはどちらでしょうか。
少し自分の頭を使って考えてみて、答えを出してください。

……

僕の勝手な予想だと、②を選んだ人が多いと思います。
なんとなくですが。
僕は中学生か高校生のころ、ある本を読んでいるときにこの問題と出会い、
数学の奥深さを知り、とても数学を好きになったのを覚えています。

この問題、実際の答えはどうなるのでしょうか。

では、数学が苦手な方にも分かるように簡単に答えを導きます。
まず、ひたすらに数字が書かれた数直線をイメージしてください。
数直線における数の性質で、

「a<b ならば a と b の間に数が存在する」

というものがあります。
このとき、0.999…と1が同じでないとすると、その間には
0.999…< X < 1
なるXが存在することになります。
しかし、そのような数Xというのは存在を証明できません。

よって
①0.999…=1
が成立するので、理論的には①が正解。
他にもたくさん証明方法はありますが、一番簡単な方法を見せました。
もしかしたら理系の人はカンタンだったかもしれません。
もっと詳しく知りたい人は、google先生に聞いてみましょう。

……

僕がこの事実を知ったのは前述の通り、たしか中学生か高校生のときで、
子ども向けの数学の本(博士の愛した数式みたいな)を読んでいたときでした。
それを読んだとき、とても腑に落ちない思いをしたのを覚えています。

0.999…は、小数点がついているんだから、確実に1より小さいじゃないか、と。
同じわけないじゃないか、と。
そんな考えても考えても到底わからない問題を、うーん、と考えるのが好きでした。

そして流れる月日の中で、いつのまにか、
そのような問題があったことすら忘れてしまいました。

……

最近僕が読んでいた講談社新書の「無限論の教室」のなかで、
またその議論が出てきました。
つまり、1=0.999…なのか、はたまた違うのか、というものです。

その本は新書なのですが、登場人物がそれぞれ話し合う形式になっています。
その中で、0.999…=1であると習った、と主張する学生に対して、博士は言います。

「私は、それには反対です。
0.999…と例えば9が百万回続いたとして、それは1に等しいですか。
それは1に限りなく近いですが、1ではありません。
君は実無限派。
私は可能無限派です」

どうやら、「無限」には実無限派と可能無限派が存在するらしい。
その実無限派とは、簡単に言うと、無数の点によって線分ができるという解釈。
それに対して可能無限派は、あくまでも可能性として無限を考える。
線分を切断すれば点が取り出せ、そしてそれはいつまでも続けていける可能性がある、
そういう解釈です。

とても概念的な難しいところですが、僕がここで言いたいのは、
「1≠0.999…と考えることもできる」
ということです。

……

博士の言うことが正しかった場合、先ほどの数直線の考え方を用いると、

「1と0.999…の間にはある数が存在する」

ことになります。
しかし、実際にはその数は数直線上には見えてきません。
目には見えないけれど、存在しているのです。
学生には見えなかったけれど、博士には見えているのです。

……

僕たち人間は、目に見えるものだけを信じようとしがちです。
特に今の若い人たちには、想像力が欠けているように思います。

ある被災地ボランティアに行った友人が、こんなことを言っていました。

「俺は被災地に行くのは初めてじゃなかったんだけど、
今回行ってみて感じたのは、ボランティアの質が下がっているということ。

ある大学生のボランティアさんがこう言っていた。

『思ってたより、ひどくないじゃんか』

彼は、そこまで復興するまでにどれほどの人が頑張ったのかを、
想像することができないんだ」

……

また、こんなこともありました。
僕がいま活動している環境NGO(以下アシード)に、
この春から韓国人の女の子が入ってきました。
その女の子は独学で日本語を勉強し、数ヶ月前に日本に一人でやってきて、
今はアルバイトをしながらアシードでの活動もしています。

アシードで先週末、新潟県に合宿に行きました。
その合宿の主な目的は二つあります。
一つはこの夏に活動するフジロックの現場を下見すること。
もう一つは、これからこのメンバーで活動するうえで、みんなに本音を話す場を設けることです。
後者の方は、大きな部屋でみんなが輪となり、一人につき五分程度時間を与えられ、
それぞれが好きなように想いを話します。
夜中6時間ほどかけて行われ、「スピリッツ共有」と呼んでいます。

その合宿の帰り道、その韓国人の女の子と、二人で話す機会がありました。
彼女は合宿で感じたことを教えてくれました。

「この合宿にきて、ここが日本なのか韓国なのか、わからなくなってしまったの。

うまく言えないけど、スピリッツ共有で、みんなの言ってることは全然わからないのに、
なぜか涙が出たんです。

言葉がわからなくても、みんなの気持ちは、伝わったんです」

東横線で熱心に、完璧ではない日本語で伝えようとしてくれる彼女。
うんうん、と頷きながら、僕は考えていました。
(僕と彼女の間に、本当に国境があるのだろうか?)

僕はそれまで、外国人との間に無意識に線を引いていました。
少なくとも外国人に対して、日本人と同じように接することはできなかった。

でもその夜に行われたスピリッツ共有は、想像力がいくつも重なって、
おそらく国境をも超えたんだと思います。
彼女も僕も、たとえ国籍は違ったとしても、一人の人間だったのです。

……

なぜ、無責任な発言をするのか。

なぜ、優しくなれないのか。

なぜ、いじめがあるのか。

なぜ、戦争をするのか。

それは、想像力が足りないから。
もっと想像して、もっと認め合うことができれば、平和に近づくことができるはず。

……

では、想像力とはなにか。

それは、

「1と0.999…の間に、いくつもの数を描けること」

だと思います。

博士のように、見えない数字を見ようとすることです。

心に存在する国境は、想像力があれば、なくすことができる。
僕たちに今必要なのは、そんな想像力。

あの人を、あの場所を、あの時間を、心の目でそっと見つめてみてください。
それはきっと、難しいことじゃないから。



2011年6月19日日曜日

いつかの特別を、最高の味わいで。

中学生のとき、おもむろに父親の書斎を漁って、「海辺のカフカ」を読んでみたことがある。

僕はその頃、他の友人と比較しても人並みかそれ以下の読書しかしたことがなく、ましてや小説なんて敷居が高いものと勝手に思っていた。

父親の書斎には昔から実にたくさんの本があったのだが、僕が「海辺のカフカ」を手にとったのは偶然ではなかった。

それは言わずと知れた村上春樹の代表作で、中学生の僕でも名前を聞いたことがあったらしく、さらに「15歳になった僕は二度と戻らない旅にでた」のようなキャッチフレーズになんだか惹かれ、手にとったのだった。

そして、わずか10ページで挫折した。

……

春樹の小説は文体が独特で、異端の部類に属するものだと思う。
中学生の僕は、その独特の文体に、拒否反応が出た。

「だいたい、『カラスと呼ばれる少年』なんて、大人の娯楽である小説の登場人物として適切なのか…?」
それはあるいは、小学校の教科書に載っていてもおかしくないような錯覚を覚えたのである。

そのあと、書斎にあった伊坂幸太郎のチルドレンを手に取り、彼の作品の虜になり、小説というものにどっぷりハマっていったのを覚えている。

そして、村上春樹からはしばらく距離を置くことになった。

……

その数年後、僕はおもしろい体験をする。

大学生になった僕は、久しぶりにもう一度、「海辺のカフカ」を手に取り、読んでみた。
どうせつまらないだろう、と思いながら。
映画化されて話題になったノルウェイの森を読んで、春樹のほかの作品も読んでみたくなったからだ。

するとどうだろう。

面白くて、ページが止まらない。

みるみる物語に吸い込まれ、あっという間に読み終わった。

「これは日本の文学を代表する作品だ」
生意気ながら、僕は本当にそう思ったのである。

……

その変化の理由は、「正統派の経験」にあると思う。

中学生から大学生になるまでの何年もの間、伊坂幸太郎や石田衣良、重松清に恩田陸といった、いわゆる「正統派の小説」をたくさん読んだ(ここで僕が定義する正統、異端は説明をわかりやすくするためほ便宜的なものであって、文学的に必ずしもそうなわけではありません)。

正統派を経験することで、異端への免疫ができ、それが異端たる所以や、それならではの奥深さを理解できるようになる。

普通を経験しないと、特別の本当の良さなんてわからない。

そういう当然と言えば当然のことを、僕は身をもって実感した。

……

この法則が一番当てはまるもの。

それは、恋愛です。

「草食系男子」という単語が日常的に使われるようになって久しい。
僕の周りでも、異性と付き合っていない人は、男女別なく多い気がする。

その多くの理由は「理想的な異性がいない」というもので、彼らの中にはどうやら「私のことを絶対的に幸せにしてくれる誰かが、いつか目の前に現れる」と信じてやまない人がいる感じもする。

まずは、目の前の異性を見つめてみよう。

付き合わなくたっていいから、一回でもデートしたりお茶したりすれば、その子の服装、しゃべり方、どんな食べ物が好きか、どんな人生を送りたいのか、などの情報が得られる。
なにより、それらの発見はたいていの場合、楽しい。

いつかやってくる「理想の恋人」が目の前に現れたら。

その時は、それまでの普通のデートで培った経験を駆使して、なんとかモノにしようじゃないか。

最高のデザートを食べるために、まずは普通のアイスクリームを味見して、その日のためにじっと備えましょう。


最後に、尊敬する石田衣良さんの言葉をお借りして。

「恋のメガネは焦点を甘く」

2011年6月16日木曜日

昔のボーイフレンド

 武弘との一年半ぶりのセックスは、なんだかぎこちなかった。身体は記憶の中にあるとおりなのに、反応がどこかずれてしまっている。タイミングが微妙に狂っているし、それがお互いにわかっているから、その最中におかしな焦りが生まれてしまった。
 武弘は以前にも増してがんばってくれたが、結局はるかはその夜エクスタシーを迎えることはなかった。それでもはるかは十分満足だった。こうした行為は、繰り返していけば自然にただしい形やタイミングが見つかるものである。武弘との相性は六年の永い春のあいだに確認ずみだった。

 真夜中をすぎてぐったりと眠りこける武弘の横顔を、はるかは頬杖をついて見ていた。何度も頭に浮かぶのは、なぜこの人だったんだろうという疑問である。武弘は低いいびきをかき、うっすらと口を開いて眠っている。

 そのときはるかが考えたのは、世の中にいる無数の男たちのことだった。この人だってうちの会社の同僚のように、私以外の人にはずいぶんいいかげんなところがあるのかもしれない。でも、武弘はわたしにはいつだっていい人だった。わたしが最大限に困っているときには、なぜかいつもそばにいてくれた。きっとこの昔のボーイフレンドはそういうめぐりあわせの人なのだ。そう思うとなぜか涙がにじんできた。はるかは新しいベッドカバーの端に、そっと涙を吸わせた。

 人の気も知らずに、武弘のいびきがのんきに高くなった。はるかは手を伸ばして、芯の硬い男の鼻をつまんだ。息ができなくなったようで、しばらくもがいてから苦しげに武弘が目を覚ました。はるかの手を払いのけていう。
「なんだよ、殺す気か」
はるかは荒い息をする武弘の頬にキスをして、耳元でささやいた。
「だっていびきがうるさかったんだもん」
はるかはほかにももっと伝えたいことがたくさんあった気がしたが、そのまま抱きついているうちに言葉は涙になって流れてしまった。武弘は黙って抱きしめていてくれる。この人はそういうことが無理なくできる人なのだ。
 
 明日は一日なにをしよう。十八カ月ぶりにふたりですごす日曜日に、はるかの胸はときめいた。もうすぐ朝がくるだろう。

by 石田衣良 1ポンドの悲しみより

……

短編小説って、苦手な人が多いと思うのだけれど、僕はすきです。
むしろ長編小説よりもすきです。

あっさりしてて、シュワっとしてる。
読書というよりも、音楽を聴く感覚に近いかもしれない。

トリックを楽しむというより、読んでいる瞬間をたのしむもの。
それが短編小説。

今回は石田衣良さんの作品を引用させていただきました。
「ネタバレじゃないか!」
と言うひと、短編小説にネタバレはないのです(持論)。
この「1ポンドの悲しみ」という小説には
ほかにもたくさんの素敵な短編があるので、ぜひ読んでみてください◎

短編小説のすすめでしたー

2011年6月14日火曜日

たくさんの夢

たとえば、サッカー選手になりたい少年がいたとする。
彼は、夢のために毎日練習する。
学校の勉強はどうでもよかった。
テストで100点をとるより、試合での1点をとりたかった。
彼は毎日ボールを蹴って、だから、いつの間にかチームメイトの中で1番うまいプレイヤーになっていた。

しかしある日、彼は気づく。

「僕がサッカー選手を目指したところで、結局なれるわけないんだ」

それは県大会の優勝を逃した時かもしれない。
弱小チームを相手に引き分けてしまった時かもしれない。

いずれにせよ、彼は気づいてしまったのだ。

……

人は誰だって、一度くらいでかい夢をもつものだ。

「歌手になりたい」

「メジャーリーグに出たい」

「ノーベル賞をとりたい」

「ミリオンセラーの小説を書きたい」

「大企業の社長になりたい」…


その夢は、とてつもなくデカい。

誰かに話すと笑われることもしばしば。

だから人はいつしか、自分の夢を小さくしていく。
小さく、より小さく。

それは悪いことじゃない。
むしろ、現実に即した合理的なことだ。

でもその中で、忘れてしまったことはなんだろう。

……

大地震が日本を襲い、何人もの命が奪われた。

この文章を読んでくれてるヒトは、幸いにも生きている人達のはずだ。

亡くなったたくさんの命。
その中には、まだ小さくできないままの、でっかい夢がいくつもあったはずだ。

僕らは、たくさんの奪われた夢を、叶えるまではいかなくても、想像してみるくらいの義務があるんじゃないかと思う。

もしかしたらその中で、叶えることができる夢があるかもしれない。

そのくらいの奇跡はあってもいい。

僕たちが気づかぬ間に小さくしてしまった夢を、思い出してみよう。

……

まだ被災地へ脚を運べていない僕が、こんな偉そうなこと言えたもんじゃないけど。

それでも、東海道線でふと思ったことを書いてみた。

早く被災地をこの目で見ないといけない。

夏休みになってしまうかもしれないけど、日本人として、一人の人間として、絶対に行きます。

2011年6月9日木曜日

ブログの再開

えー。
今まではJUGEMのサービスを使って細々とブログを展開してきたわけですが、
そちらはほとんど更新しなくなってしまいました。

理由は明白です。

「ブログがかっこよくない!!」


個人的に、アメブロとかやるのはなんか嫌だったので、
頑張ってブログを作ってみました。

シンプルさを追求!
なんか読みたくなっちゃうデザイン!
そんな感じをコンセプトに作りました。

なんだか我ながらよくできたので、これなら三日坊主のきくち君でも続けられそうです。


このブログの目的は主に3つ。

1、自らの思いを文章にまとめる訓練をする

2、ツイッターでは短すぎて収まらない思いを発信する

3、「続ける」ことを訓練する

……

1、自らの思いを文章にまとめる訓練をする

二十歳である僕はこれからあと60年くらい生きていくわけですが、そのために必要なスキルはなんでしょうか。
それは確実に、「書く」スキルであると思います。
もちろんほかにも必要なスキルはたあくさんあります。
しかしその中でも、「書く」というのはとても重要なスキルです。

大学生である身からすれば、たとえばレポートや論文を書くとき。
教授を「これは!」と唸らせるのは、コピペの技量ではありません。
それは、説得力ある文章を書くスキルです。
説得力ある文章は、「書いたろっと」と思って、気楽に書けるものではないのです。
日頃書く訓練を積むことで、着実に身に付けることのできる力だと思います。

またそれだけではありません。
就活の時のエントリーシートや、入社後も企画書や報告書の作成など、大学を卒業してからもさまざまなところで「書く」スキルは問われるでしょう。

「書く」ことは、自分の思いをまとめる練習にもなります。
自分が抱いている複雑な思いを文章にすることで、自分の思いがコトバになります。
この思いをコトバにする能力というのは、非常に重要です。
これができない人は、流されるままに人生を送ることになりかねません。
逆にこれができる人は、自分で道を切り開いていけるでしょう。


2、ツイッターでは短すぎて収まらない思いを発信する

僕はツイッターが大好きです。
自分の思いを好きなように発信できるから。

僕とツイッターとの出会い。
僕は書くことが好きでした。
そして、目立ちたがり屋でした。
「自分が考えていることを、もっと他人と共有したい」
そんな思いが常にありました。

そんな僕に、ある友人がツイッターの面白さを教えてくれました。
「これ、ぜったい俊平向きだよ!はまるよ!」
そんなわけねぇって…やれやれ。
そんな思いは1日で吹き飛び、僕は彼女の術中にはまり、そしてツイッターの虜となりました。

自分の思いをこんなに手軽に発信できるなんて…
それは、僕にとって、とてもすごいことでした。
ツイッター創業者のことを心から尊敬しました。

しかし、徐々に不満も生じました。
140字じゃ物足りないのです。
連続ツイートをすると友人から「つぶやきすぎだ!」みたいなお叱りの言葉を受けるので、僕は次第に萎縮していきました(うそ)。

まあ、そんなこともあって、ブログを始めたいな、と思ったわけであります。


3、「続ける」ことを訓練する

僕は三日坊主です。

嘘をつきました。

僕は一日坊主です!!!!どーん
何をやっても続かない、それが菊池俊平です(サッカーは12年間続きましたが)。

とにかく飽きっぽいのです。
ピアノもバイオリンも水泳もギターも中途半端なところで投げ出しました。
とにかく、飽きっぽいのです。

これはまずい、そう感じました。
僕には持久力がない。

しかしある考えが生まれました。
「好きなことなら続けられるのでは…?」
そしてそれはすでに、サッカーが証明してくれていました。

僕は書くことが好き(なはず)です。
なのでこのブログも続けられる(はず)です。


テーマを持つと、それに縛られて書くのが嫌になりそうだったので、とりあえずはブログのテーマは決めていません。
ですが、読者の皆様になにかしら「気づき」を与えられるように頑張ります。

書く頻度は未定ですが、最高週に1回、最低月に1回くらいかなぁ、とぼんやり考えています。
まあ、続けることを第一の目標に。
心強いファンのみなさんがいれば、このブログは大学卒業まで続くはずです!

興味を持ってくれた方は、ぜひ応援よろしくお願いします。
ではまた。