2012年7月31日火曜日

なぜ大学で勉強しなくてはいけないのか?

今宵は、勉強するということについて考えてみようじゃないか。

……

テスト期間中、僕はほとんど毎日大学の図書館へ通った。
国立大学だから、人でごった返していることもないし、なにより落ち着いて勉強ができるこの図書館。
この大学で、僕が好きな場所の一つである。

図書館に紙パックの飲料水を持ち込んで入ったら、事務の人に呼び止められて、
「紙パックの飲料は、持ち込みご遠慮お願いします。ペットボトルなら大丈夫なんですが。」
「いや、でもまだ全然残ってるんですけど…。」
「それなら、中身を捨ててから図書館に入ってください。」
「え、でもそれは不衛生じゃないですか。それに、この世界で何十万人の子供が、この飲料水を飲めなくて苦しんでると思ってるんですか?僕が今、中身を捨てたらね、それは人倫に悖る行為となりますよ完全に。」
「え、あ、はい、それなら中身を飲み干してから入ってください。」
などという会話は特に交わされなかったが、とにかく僕は図書館で勉強をしたのだ。

単純に勉強が楽しい、というモチベーションはたしかにあったのだけれど、それでもやはり、「なんで僕は勉強をしているんだろうか?」という疑問が時々頭をよぎった。
大学に入った時点で、真剣に勉強することの意義を見出せなくなる人は多い。
僕自身も前の大学でそうだったからよくわかる。
勉強したところで、GPAが上がるだけだし、それが就職に結びつくわけでもないし。
単位さえ取れれば、いい。
そういう雰囲気は、おそらく日本中の大学を取り巻いているのだろう。

でも、勉強には明確な意義がある。
それを知っていないと、勉強に対する姿勢は変わらない。


さしあたって、一人の会社員の言葉を僕は思い出すのだ。


……

僕は高円寺の酒屋にいた。
それは、引っ越した初日のことだ。つまり、6月。
その日、日本代表の試合があるのを知っていた。
僕はどうしてもそれを見たかったので、近所の酒場まで足を運んだのだ。
画面では、代表が相手チームを大人げないほど叩きのめしていた。

「こんなに圧勝なら宮市が見たかったなー。」

そうこぼしたのは、僕の隣で試合を見ている、名前も知らない会社員だ。
スーツをぱりっと着こなしている。
とても仕事ができそうな風貌だった。

「君もそう思わないか?」

彼は、ぐいっとビールを飲み干した。
僕らは初めて出会ったのだけれど、試合を観戦しながら楽しく話をしていた。

「そうですね…
でも、たくさん点入って、見てる方としては気持ちよかったし。」

代表は見違えるほど強くなった。
僕はというと、その事実にちょっと嬉しくなっていたところだ。
会社員は、話題を変えた。

「そういえば、大学入り直したって言ってたよね。
今はどこに通ってるの?」

「一橋大学です。」

名前も知らない会社員と話をするのは、最初こそ照れ臭かったけれど、
酔いも回ってもうずいぶんと慣れてしまった。
それに何より、その会社員はとてもウィットに富んだ人で、話していて気持ちがよかった。

「そっか。頭いいんだね。
最近の大学生って、ほんとに勉強しないらしいね。」

「そうですね。僕の周りでも、大学に入っただけで満足している人はいます。
でも、一応僕は二回目の大学生なんで。
勉強を最優先させるようにしています。」

「そっか。それはいいことだ。
突然だけど、なんで大学生が勉強しなきゃいけないか、わかるか?」

なかなか難しい質問だった。
僕は漠然と、目の前の知識を吸収していたのだ。
少し悩んで、答える。

「教養を身に付けるためでしょうか。」

会社員の顔が、綻んだ。

「そうだ。まさに、教養を身に付けるためだ。わかってるね。
だけど、これだけは覚えていなくちゃいけないよ。
真の教養を身に付けるのは、本当に難しいことなんだ。
それはそれは、とてつもなくね。
教養を身に付けるのが、実は一番難しいということ、
これは絶対に忘れちゃいけないよ。」

その言葉は、酒屋の片隅で、僕の胸に響いた。

「あとね、こんなところに毎晩通うようになってちゃ、ダメだぞ。」

……

ここで、少し冷静に考えてみよう。

大学で勉強するのは、本当に教養を身に付けるためなのだろうか?

あの時の僕は、疑うことなく無邪気にその言葉を信じてしまったけど、
それは本当に正しいのだろうか。

……

後日、僕は友達から、唐突にこんな質問を受けた。

「教養って、なんだと思う?」

その問いかけは、あの会社員と会話した直後ということもあって、なかなか面白かった。
と同時に、自分がその答えを用意できていないことに気がついた。

教養を身に付けるために勉強する、そうは言っても、
肝心の教養がなんなのか把握していなかったら、何も始まらない。

「ちょっと、1分だけ待って。」

僕は、考える時間をもらった。
みなさんにも1分間、教養とはなんなのか考えてもらいたい。
それは、すごく深い問いだ。
簡単に答えは出せないだろう。

……

僕はなんとか、自分なりの答えを見つけた。

「わかった。」

「なに?」

「教養は、社会人のグレーゾーンだ。」

友達は、すこし、首をかしげた。

「どういうこと?」

「つまり、社会人としての共通認識ってこと。
社会人がおしなべて持っている共通理解だ。
それを持っていないと、コミュニケーションが円滑にいかなくなるんだ。」

「うーん…
社会人って、幅が広すぎじゃない?」

「それなら、知識人の共通認識でもいい。」

うーん、我ながらぶれぶれだぞ。
でも、なかなか惜しいところまでは来ている気がするんだ。

「そっかぁ。
私、教養がなんなのか気になって、調べてみたんだよね。
そうしたら、教養って、3つの能力から成り立っていることがわかった。

俯瞰的に物事を見れること。
無知の知を知っていること。
一見何の繋がりもない物事の関係性を理解できること。


このみっつ。
どうやったら、この教養を身に付けられるか、わかる?」

「勉強し続けるしかない。」

「そう、難しい本を読んで、勉強し続けるしかないんだって。
簡単には身につかないものなんだよ、教養は。

それで、この3つの定義の本当の意味をわかるようになるには、
自分にはまだ意味がわからないけど、大切だと思えることに時間をかけて
誠実にわかろうと努力し続けることが必要。
なんだって!」

なるほどー、と膝を打ちながら、最近僕の考えていたこととよく似てるなぁ、と思ったのです。

……

ここで、4億年前の世界を想像してみよう。
そこに生息していたのは、魚類だけだ。
魚類から進化の歴史は始まる。

ある日、魚類のうちの一匹が、陸地を目指そうと志した。
彼にどんなドラマがあったのかは知らない。
しかし、彼は、上陸に成功する。
彼は、後に我々から、「両生類」と呼ばれる生き物となった。
進化した、のである。

ここでポイントとなるのは、上陸に成功したそいつは、決して強者ではなかったということだ。
つまり、彼は、水の中での勢力争いに負け、陸地を目指すしかなかったのだ。
敗者ゆえに進化した、のである。

それなら水中での強者はどうなったのか?
そいつは、シーラカンスという「生きた化石」であり、当時と同じ姿をしたまま今に至る

……

なぜ僕が急に進化の話をしたか、わかるだろうか。

それは、ここに、イノベーションの起源が存在する、と思ったからです。

最近僕は、「グーグルで必要なことは、みんなソニーが教えてくれた」という
おもしろい本を読んだ。

この本については、「ブクペ」というサイトで概要をまとめたからそっちを読んでほしいんだけど、
まあとにかく、アップルの登場などによりソニーが落ちぶれていく様子が鮮明に書かれていた。
でも僕は、この本を読みながら、こんな風に解釈する。

ソニーはウォークマンという牙城を築き、それの過信を持ち続けていた。
いつまでもネットの可能性を無視していた。
ネットの市場は膨らむ一方なのに、見て見ぬ振りをした。
そこにやってきた、アップル。
アップルはiPodに、iTunesという強力な武器を引っ提げてやってきた。
それは音楽業界が、「ネット」という陸地に上陸した瞬間だった。
ソニーは、日本のシーラカンスとなった。


もっとも、これはソニーに限った話じゃない。
何年、何十年という単位で、進化した企業が老舗を追い出し、シーラカンスたらしめる。
そういうことが、企業の間では繰り返されてきた。イノベーションが起こるたびに。

そしてこのイノベーションの起源は、何億年も前から存在していた。
ほかでもない、魚類の進化に見て取れるのです。

……

こういう風に思考していくこと、思考し続けることができる人を、
「教養のある人」というんじゃないでしょうか。

さっきの友達が示した教養の定義をもう一度書きます。


俯瞰的に物事を見れること。
無知の知を知っていること。
一見何の繋がりもない物事の関係性を理解できること。


先ほど示した「シーラカンス・イノベーション論」もこの三つ目に当てはまると思います。
この三つの詳しい解説は、あえてしません。
ですが、この三つを抽象化してみると、次のようなことが言えるでしょう。

教養とは、知識をダイナミックに繋げることのできる能力である。

そして、

我々は、この教養を身に付けるために、勉強し続けなくてはならない。

……

しかしまあ、大学の講義とは凡そつまらないものだ。
それは、100年も前からそうなのだから。
漱石の三四郎を手に取ればすぐにわかるだろう。
三四郎の友人、与次郎が、「講義はつまらないものだ。」と断言しているではないか。
東京帝国大学(現東大)の講義ですらつまらなかったらしい。

現代の学生は、そして、外へ出ていこうとしてしまう。
行動を起こすことこそが「素晴らしいこと」だとされる。
起業をする。インターンをする。イベントを主催する。
近頃は、高校生の頃から学生団体を立ち上げたりしちゃってる人なんかもいる。

無論、これらを無下に否定するのは、早計にすぎる。
しかしながら、こういった人たちは大抵、「勉強する」ことを忘れている。
あるいは、「勉強する」ことのプライオリティが、行動より下にある。

……

IT社会が進展したとはいえ、我々は勉強をやめてはいけない。
それは先ほども示したように、教養を身に付けるためだ。

教養が備わっていない人は、話せば5分で見抜かれます。
彼らとする会話は、ツマラナイ。
そして、イノベーションが生まれる気配が全くない。
「教養の欠如」を「行動」で埋めようとするのは、浅はかである。
教養に愛と行動が伴い、初めてイノベーションが生まれる。

教養のない人なんて、就職面接でも落とされますし、起業しても成功する可能性は低いし。
はっきり言って、今の世の中に必要ないでしょう。

……

とまあ、そういうわけです。
結局何が言いたいのか、というと

「もっと勉強しよう!」

ということです。
繰り返しますが、大学で勉強をするのは、教養を身に付けるためです。
「意味あんのかなあ、これ」と思うような勉強を続けるのです。
そしてある日急に、教養は自分の一部となります。

教養とは、知のダイナミズムです。
それが身に付いても、世界は変わりません。
ただ、世界の見え方が変わります。

例えば、言葉をしゃべること自体が男女差別であることがわかります。

例えば、宗教の不毛さを実感します。

例えば、反原発がいかに愚かであるかがわかります。

例えば、イノベーションの起源が魚類の進化にあることがわかります。

例えば、今の日本がどれだけ壊滅的な状態にあるかがわかります。

……

具体的にもっと詳しく書きたかったのですが、長くなったので、日を改めます。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
勉強をがんばるみなさんに、溢れんばかりの愛を。






0 件のコメント:

コメントを投稿