2012年8月27日月曜日

自転車に乗りながら、まわる、まわる。

一通の通知書が、ある人間にとって行動のインセンティブとなる。
なんか大げさな言い方であるが、要は実家に帰った時のことを書こうと思う。
ある一通の通知書が、僕の家に届いたのだ。

「放置自転車、発見のお知らせ」
それは、紛れもなく、僕の自転車であった。

……

簡単に説明すると、こうだ。
僕がまだ実家にいた時、自転車を盗まれた。
まあ、カギをかけていなかったので、致し方ないとも言える。
そして、「いつかの自分の過ちが巡り巡って自分に帰ってきたのだろう」と思い、僕はそれを真摯に受け止めた。

その自転車が放置自転車として見つかったらしい。
おそらくパクった人間が乗り回した後、このまま持っていても不吉だからといって放置したのだろう。
賢明な判断だ。

そして、その通知書が僕に届いた。
防犯登録をしていたので当然だ。
だから、僕は、実家に帰ろうと思ったのである。

……

実家に着くと、早速僕は自転車を引き取りに行った。
家から藤沢駅近くの保管所まで、40分ほどかけて歩く。

思えば、僕は自転車っ子だった。
高校も自転車通学だったから、毎日のように自転車で学校に通っていた。
たいていの場所は自転車で行った。
東進も大清水も、あるいはデートへも、僕は自転車で行った。
いろんな人を後ろに乗せた。
そんな思い出がたくさん詰まった自転車だった。

……

保管所で、二か月半ぶりに自転車と対面した。
そいつはもともとガタがきていたのに、長い間風雨にさらされて、ところどころが錆ついてしまっていた。
それでも、僕は嬉しかった。

「また、こいつと走れる。」

そして、保管所に2千円払って自転車を引き取り、僕はサドルにまたがった。

……

二か月半ぶりに自転車に乗ると、なんだか翼が生えたような気分になった。
景色がぐるぐる。
まわる、まわる。
引っ越して以来、移動手段はすべて歩きだったから。
身体にあたる風が気持ちよかった。
スピード感が心地よかった。
本当に空を飛んでいるような錯覚を覚えた。

そして同時に、高校生の頃の記憶が我先にとフラッシュバックした。
僕は爽快感に浸りながら、感傷にふけった。

景色がぐるぐる。
まわる、まわる。
僕はこのまま、どこにでも行けるような気がした。

すると、あるイタズラな欲求が、僕の心を支配した。
それは、高校を卒業してから、僕が意図的に避けてきた欲求だった。

僕はそれを、必死に抑えつけようとする。
欲望は、すなわち己の虚弱さなり。


でも、もはや後戻りできないほどにその欲求は膨れ上がってしまった。
僕はあきらめた。
まあ、いっか!

「家に帰るなら、左折しなくてはならない。」

頭では理解していた。
でも頭と、身体は、違う。
僕は、当たり前のようにその道を右折した。

……

そこは、僕がもう通らないと決めた道だった。
理由は簡単だ。
「高校生の自分に戻ってしまうから。」
誰だって、そういう道があるだろう。
大切な思い出だけで満たされた、特別な道だ。

でも、僕に後悔はなかった。
なぜか?
その道を通っても、僕は高校生に戻れなかったのだ。
それは、もう「過去の記憶」として、道端に転がっていた。

「もう、高校生の自分を、過去として受け止められるようになったんだな…」

それは、僕がまた大人に近づいたという証であり、少し寂しくなった。

……

もうひとつ、イタズラな欲求が僕に芽生えていた。
「この自転車で高円寺の家まで帰ろう。」
そんな馬鹿馬鹿しい試みだ。

アイフォンで調べると、どうやら歩いて8時間ほどで高円寺には着く。
自転車で行けば3時間くらいで着くだろう!
そのように思った。

が、それは甘かったと、後で思い知らされる。

……

何を思ったのか、夕方4時ごろ、僕は高円寺に帰る決意を固めた。
母親にハチミツやらエビオスやらを持たされ、荷物たっぷりで家を出たのは午後4時半だ。
夜の7時くらいには着くだろう、と思った。
アイフォンだけが、僕の地図だった。

引地川沿いを行き、白幡神社の脇を抜けて、大清水高校の横を流れる川沿いをずっと走った。
気持ちいいコースだった。
夕焼けが綺麗だった。

そのうち、1時間ほどで、横浜市に入った。
「もう横浜か…」
そこは、旧ドリームランド前だった。
小学生の頃、ここにサッカースクールがあって、毎週サッカーに来ていたことを思い出した。
そして、ほぼ同時に、ドリームランドの閉鎖前にサッカースクールの友達とここで遊んだこと、直後にサッカースクールもゆめが丘に移ってしまったことを思い出した。

すべては栄枯盛衰なのだ。

……

ドリームランドを過ぎて、ずっと走っていくと、偶然にもゆめが丘にやってきた。
そして、僕がサッカーをしに来ていた人工芝のグラウンドも眼前に現れた。
6年生の時からサッカースクールがこっちに移って、ここでサッカーをしていた。
「こうやって闇雲に走っていくだけでも、思い出のある場所がたくさんあるんだなあ」
僕は自販機で買ったスポーツドリンクを飲みながら、そんなことを考えた。

……

そうやって楽しく旅ができたのも束の間。
横浜市がとにかく長かった。
長いというか、でかい。

横浜って、とにかく起伏が激しいのだ。
坂がたくさんある。
長ーい上り坂をひいひい言いながら登って、下り坂をしゃーっと駆け抜けていく。

「人生みたいだな」、と思った。
いろんな坂道がある。
ちょっと頑張れば乗り越えられる坂もあれば、長くて長くて、自転車を手で押さないと登れない坂もある。
いろんな壁が、僕らの前には立ちはだかる。
ひとつ確実に言えることは、きつーい坂を登った後は、確実に気持ちのいい下り坂が現れるということ。
下り坂の快感。
それがあるから、僕らは辛くても、この人生を頑張れるのだろう。

……

日が完全に落ちた。
まだ横浜だった。
そして、迷子になった。

アイフォンの充電を見やる。
「残り25%」
や、やばい。

センター北駅を過ぎた所まではよかった。
その後、横浜の田舎っぽい所にさしかかり、アイフォンの示す方角がわからなくなった。
ナビによると、この電気の点いていない、いかにも痴漢の出そうな狭い坂道を登らないといけないらしい。
実際、「痴漢に注意!」と看板が出ている。
周りは林で、真っ暗。
なんか出そう。
いや、怖すぎる!

僕はその道を諦めた。
違う道でいこう。
しかし、いかんせん充電が少ないので、道を調べることができない。

ちなみに僕には、高円寺に帰る以外の選択肢(どこかに泊まるなど)は残されていなかった。
翌日、お昼から所属している団体のミーティングがあったのだ。
なんとしても僕は、高円寺の家に帰らなくてはならなかった。

1時間ほど、周辺をさまよった。
怖かった。
アイフォンは10%まで充電がなくなった。

4時半に家を出たことを後悔しかけていたとき、ついに大通りから、登り坂を見つけた。
「ここを登って左折すれば、たぶん同じところに着く!」

僕の明晰な予想はズバリ的中し、アイフォンの示す通りの道にでた。
そのまま行くと、厚木街道にでた。
国道246号線。
ながーい坂道を下りながら、僕は力いっぱい叫んだ。


景色がぐるぐる。
まわる、まわる。

たくさんの車たちが、僕の横を駆け抜けていった。

……

国道246号をずっと走ってゆく。
川崎を抜けて、ついに。

「世田谷区」

ついに東京まで来た。
しかし、ここで不吉な懸念が、僕の心の中を入道雲のように立ち込めた。

道を埋め尽くす人混み。
浴衣のカップル。

多摩川だった。
そこは多摩川だった。
いや、誰がなんと言おうと多摩川だった。

僕はどうやら、多摩川花火に出くわしたようだった。
何が辛いって、花火がもう終わっていたことだ。

「言語道断!!」

私は浴衣のカップルたちがこちらに向かってくる中、一人汗だくで逆走した。

でも、みんな楽しそうだった。
みんな楽しそうで、なんかそれが嬉しかった。

……

ついに、アイフォンの電池が2%を切った。
これは実にヤバい。
100%充電してこなかったことを後悔した。

しかし、後の祭りだ。
現状は、変わらない。
自分で打開するしかない。

「地図を覚えよう。」

私のずば抜けた記憶力をもってすれば、世田谷から高円寺までの道を記憶することなど容易いはずだ。

「えーと、メモリードホールを左、ずっといって、突き当りを右…

…最後は渡辺医院を左!」

もうあとは気力で行くしかない。

……

僕が渡辺医院を発見したとき、だから、狂気に近い声をあげたのは必然だっただろう。
なにやら正体不明の達成感に包まれていた。

そこの道をずっと行くと、新高円寺駅についた。

「やっと着いた…」

時刻は9時半。

今までは何も感じなかったが、その時、太ももにどっと疲れが押し寄せてきた。

……

かくして私は、藤沢から高円寺まで自転車で帰ることに成功した。
疲れ3割、楽しかった3割、達成感4割。
改めて、「やってよかったか?」と尋ねられると、正直首をかしげてしまうが。
まあ、それでも、今後二度と体験できないことだろうし、やってよかったと思う。

なにより、自転車が東京まで来てくれたことが嬉しい。

「こいつと、また走れる。」

僕は、高校時代を共にした愛車を眺めながら、「こいつに東京の景色もたくさん見せてやろう」と、心に誓うのだった。




2012年8月13日月曜日

その国に住む人は、どこか変だ。

その国に住む人は、どこか変だ。
みんな中毒者である、という点で変だ。

……

しかしながら、その国に住む人の国籍は様々だ。
イギリス人もいるだろうし、ロシア人のそれはどこかメランコリニスタと近いだろう。
もちろん日本人もいる。
その国に住む人は、世界中にいる。

……

彼らはいつも本を読んでいる。
それも、ものすごいスピードで。
まるで呼吸するようにページを繰り、頬をゆるませる。
時には美しい涙を流す。

……

僕が初めて、その国に住む人に出会ったのは、家の中だった。
とある小説を、僕は姉に貸したのだ。
それ自体は特別な現象ではなかったと思う。

30分後に、姉がその本を持って僕のところにきた。
僕は、「今読みたい本があるから、先にあんたが読んで」みたいなことを言われるのだと、てっきり思っていた。
30分で、まさか読み終わるわけがあるまい。

しかし、どうだろう!
彼女が発した言葉はまったく違った。
「おもしろかった。」

僕は、確信した。
「あゝ、この人は、違う国の人なのだ。」
そして、僕もその国に住んでみたい、と思うようになった。

……

その国に住む人の特徴は、
「読むのが恐ろしく速い、1日1冊読まないと気が済まない」
などが挙げられると思うが、本質はそこにはない。

とにかく、本が好きなのだ。
本の面白さと、本が与えてくれるものを、本能的に知っている。

トリップだ、と僕は思う。
それはどちらかというと、麻薬に近いのかもしれない。

……

あれから幾星霜。
僕もだいぶ本を読むのが速くなって、読むジャンルも多様化した。
でも、まだまだ。
その国に住む人には、きっと、ずっと負けている。

翻って、その国の住人は、めっぽう減ってしまったように思う。
IT社会の進展を通して、いわゆる「本の虫」と呼ばれる人は、ほとんどいなくなった。
それは、つまり、本の国からの「移住」を余儀なくされているのだ。

でも、僕が出会った社会人の中で、「この人はすごく頭がいいなあ」と思う人は、ほぼ例外なく相当な読書家だ。
それは、ベンチャー企業の社長、とかであっても同じだ。
頭がいい人は、みんな本の国に住んでいる。
その国で得られるものが、対価として支払ったお金の比ではないことを知っているからだ。

……

みんな、どうせなら、本の国の住人になってほしい。
それは、活躍したいジャンルを問わず、必ずあなたの財産になるから。


2012年8月11日土曜日

日本の美しいナショナリズムの起源はどこにあるのか

U23、サッカー日本代表の奮闘が終わった。
オリンピックだ。
昨晩、3位決定戦が終わった。
僕の家にはテレビがないので、近所のスペイン料理屋で、手に汗を握りながら見ていた。
日本は宿敵韓国に0-2で完敗し、メダルを手にすることはできず、4位と涙を呑む結果となった。

僕は10年間以上やっていたこともあってサッカーが大好きなのだけど、
ここで詳しい解説を述べるつもりは毛頭ない。
しかしながら僕は、渋谷で観戦した準決勝を思い出さずにはいられないのだ。

……

どうしても「渋谷」でサッカー観戦をしてみたかった。
日本国民がひとつになるような決戦を。
前回のワールドカップではその機会がなかったから、今回のオリンピックはぜひ渋谷で見たい!という思いがあった。

その願いは、準決勝のメキシコ戦でついに叶うことになる。

……

僕は、友人を誘って二人で渋谷のHUBに行った。
エントランス2000円で4ドリンクがつくという。
なかなかお手頃な値段だ。

地下1階の室内は狭い。
2つのブロックに分かれていて、事前予約した人は座ってゆったりと観戦し、それ以外の人は全員立ち見ゾーンに詰め込まれた。
(個人的には、立ち見ゾーンの方が楽しい気がする。)

立ち見ゾーンは本当にすし詰め状態で、試合開始前から熱気がやばかった。
そこには日本人以外の人もいた。
例えば、僕の隣にはたいそう太ったイギリス人がいて、彼もみんなと一緒になって「Nippon!!Nippon!!」と声援を送っているのだ。

HUBでのメキシコ戦の盛り上がりは、半端ではなかった。
特に大津が先制ゴールを決めたシーン。
地下1階が地鳴りのような叫びにつつまれ、誰が持っているのか不明なホイッスルやらブブゼラが鳴り響いた。
みんな、知らない人とハイタッチしていた。
僕も気分がよくなり、もうなんだかそこらじゅうの人とハイタッチをした。
それからもみんなでひとつになって応援した。
「にっぽん!!にっぽん!!」

とにかく店内は暑くて、クーラーの威力も微々たるものであり、店員たちがメニューであおってくれて生まれた風も焼け石に水という感じであった。

ゲームは結局、後半にミスで失点をして勝ち越され、終了間際にはダメ押しの一点を食らった。
1-3で敗戦を喫した日本代表。
HUB内にはため息がもれた。
扇原をけなしている人がいた。
でも、「次は頑張ってなんとかメダルを!」という期待の声も多かった。
僕も、頑張ってほしいと思った。

……

試合が終わって、午前3時。
当然終電もなく、僕と友達はなんとなくスクランブル交差点に向かった。
負けたから、みんな沈んでるんだろうなあ。
そんなことを思いながら歩いていたが、僕らを待っていたのは異様な光景だった。

「にっぽん!!にっぽん!!」

スクランブル交差点は、HUB以上の熱気に包まれていた。
信号が赤の間は、交差点を挟んで両岸で代表の応援歌を歌っている。
そして青になった瞬間、みんな一斉に交差点へと奇声を発しながら駆け出し、なりふり構わずハイタッチをする。
後から、交差点に来た人たちも、「なんだなんだ!?」とみんなハイタッチに参加し始め、もう様相は混沌を極めていた。
中には黒人やら中東っぽい人たちもどさくさに紛れてはしゃいでいた。

「ナショナリズムだ。」

僕はそう思った。
これがナショナリズムだ、と。

いつもの僕なら、そんな馬鹿騒ぎしている光景を目にしたら嫌悪感しか抱かないのだけど、その日はなんか違った。
僕も、見てるだけで最高に気持ちよかった。
それは、セックスなどの性的快楽とも、小説や映画から得られる精神的快楽とも異なるものだった。
僕たちが、日本人であるという自覚。
そのナショナリズムが、たまらなく快感だったのだ。

……

日本人のナショナリズムは心地よい。
それは東日本大震災であらゆる人が実感したと思う。
我々はみな誇らしかったはずだ。
緊急時にも慌てない日本人の強さと、日本人の譲り与える姿勢を、世界中が称賛したことに。
それは今さら指摘するまでもない。

日本人であることが誇りである

このような思いを抱いている日本人は多い。
僕はそれを美しいと思う。
なぜ僕がそれを美しいと思うのか。

……

ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」で指摘したように、ナショナリズムは18世紀のフランス革命にその萌芽が見られる。

ナショナリズムとは「国民主義」などと訳されるが、その定義は曖昧だ。
主要な論者のひとりであるアーネスト・ゲルナーは「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」と定義している。
要するに、ナショナリズムとは、「国民が、国民であるという自覚」だ。

なぜそれがフランス革命で出現したのか、というのは相当長い議論になるのでかなり短く説明する。

市民革命を起こして新しい「フランス」を作ろうとすれば、周りの国家の国王は黙っちゃいない。
その市民革命が自国に波及して、王を倒そうとする運動が活発になるのが怖いからだ。
そこで、フランス革命をつぶそうと周りの国々はフランスに干渉する。
その干渉に打ち勝つために、「フランス国民であるという自覚」が求められたのだ。
(当時は国境とかも曖昧ですからね。誰がフランス人であるかも、それまでは曖昧だった。みんながフランス人という自覚を持つことは、とてつもなく大変なことだったんです。)

……

フランス革命以降、ナショナリズムは世界中各地で見られた。
むしろ18世紀以降の世界史は、「ナショナリズムの歴史」と言っても過言でない。

どの国家も、他民族と自民族の差別化をはかった。
世界はたいてい国境が曖昧で、民族も入り混じっているから、
国民が、国民であるという自覚
を植え付けるのはとてつもなく大変だった。

それは時には虐殺となり、戦争を引き起こし、たくさんの血が流れた…

……

ここで、話を戻す。
我々が「日本人であるという自覚」を持つとき、世界のナショナリズムとは少し異なることに気が付くだろう。
我々は、虐殺も戦争もなしに日本人であるという自覚」を手にすることができた。

島国」。
それが我々の強みだった。
国境がはっきりしていた。
我々は、他民族との差別化を、血を流さずに手にすることができたのだ。
もちろん、南京虐殺や、北海道と沖縄といった例外はあるけれど、世界では極めて稀な例であることには疑いの余地がない。

僕が美しいと思ったのはそこだったのだ。

日本人のナショナリズムには、他民族を蔑視するという概念がない。

……

サッカー韓国代表は、日本との銅メダル決定戦で勝利しメダルを確定した後、 "独島は私たちの地"と書いた紙を持ってセレモニーをしていたとして、話題になっている。
ほんとに言語道断。
スポーツに政治観、宗教観を持ち込んではいけない。

まあでも、韓国のナショナリズムは、世界の一般的なそれと同じなのだ。
他民族を蔑視するというのがその根底にある。

疲れたからもうここで終わります。
だけどやっぱり、こう思うよね。
日本人は素晴らしいって。

そして僕らは、これによって陥るナショナリズムのパラドックスに、まだ無自覚であったりもするんだ。