2012年10月24日水曜日

ゆとり教育だったとか言って甘えてんじゃねぇぞ

生ぬるい秋が終わろうとしている。
僕にとって、秋は毎年メタフォリカルであり、何かしらの示唆を秘めていることが多いのだが、今年はどうやらそんなこともなかったようだ。

いたって平和に秋学期が始まり、僕らは毎日タイクツな授業を受ける。
僕の目の前にはたくさんの学生が広がる。
そう、ゆとり教育の弊害を被った、学生である。

……

とあるテレビ番組だった。
正確に言うと、大学の授業で取り扱ったテレビ番組だった。
テーマは「ゆとり教育を受けた学生たちの就職活動」だったと思う。

学生のモデルとして、名古屋大学のAさんを取り上げていた。
Aさんは某有名商社に内定したという。
それからのAさんの活動が取り上げあられていた。

例えば、Aさんは上司と一緒に電車に乗っていた。
取引先に向かうところである。暑い夏の一日だった。
するとAさんは鞄から扇子を取り出し、おもむろにパタパタと扇ぎはじめた。

上司は言う。
「おい、上司の前で偉そうに扇子を使うな。そんなことも習ってないのか?
取引先ではそんなミスするなよ」

Aさんは答える。
「自分、ゆとり教育でしたから…」

……

ゆとり教育は実施した側に責任がある、という言説はしばしば見られる。
無論、正しい。

ゆとり教育は、それを実施した政府に多大な責任があるだろう。
それまでの詰め込み教育を否定し、逆に覚えるべき知識量を激減させた。

若いうちにある程度の知識を詰め込むことは、とても重要なことだ。
それは、単に知識が増えるということを意味しない。
記憶力がつく。深い思考力の基礎となる。
それは、あらゆる学問の土台となる。

若いうちに、様々な知識を意味もなく詰め込むことはとても大切なことであり、ゆえに、ゆとり教育の実施は馬鹿げた政策だったと思う。

……

しかしながら、ここにクレイマーと化した現代人の本質が現れては困る。

クレイマーと化した現代人に少し説明を加える。
経済成長を通じて物質的な欲望を満たした現代人は、主体性を失っていった。
というより、責任から逃げるようになった。
つまり、一般人はクレイマーと化した。

クレイマーは「とにかく誰かがやってくれる」と思っている。
学校の授業に少しでも問題があると、母親たちはその先生に文句をぶつけるようになった。
無料のアプリでも、ちょっとしたバグがあると「糞アプリ」とレビューでけなすようになった。
そういったクレイマーが蔓延るのが現代だ。

……

大部分の被ゆとり教育者もその例にもれない。

「自分たちは被害者だ」と思っている。
私たちは悪くないと。
それをやった奴らのせいだと。

若者の知的好奇心が欠けてきている理由に、この「ゆとり教育だった」という甘えがあると思う。

自分たちに知識がないことを、ほかの誰かの責任に押し付ける。

「私はゆとり教育だったから、数学ができない」

……

甘え、だと思う。

たしかに、政府のせいかもしれないけど、あなたの知的好奇心の低さはそれに起因しない。
もっと、本質的なところにある。
政府も悪いけど、そんなことを言って逃げているあなたも悪いんだ。

だって、もっと勉強すればいい話じゃないか。強制力がないだけで。

……

政府のせいだ、これはあいつのせいだ、あーだこーだ言って逃げるのは簡単だ。

強さが欲しい。未知の領域と対峙する、強さが。

こんな時代だからこそ、あえて自らに知的苦痛を課し、それを乗り越える訓練をしてほしいと願う。






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